福間健二年譜


1949年 0歳
新潟県中蒲原郡亀田町(2005年に新潟市に編入合併)に生まれる。父清蔵、母澄子の次男として。両親とも島根県出身。3年前に兄が亡くなっていた。2年後に弟が生まれ、4人家族となる。父は、新潟では有名な新潟鉄工所に勤務。亀田は、越乃寒梅や亀田製菓のあられの故郷。

1955年 6歳
亀田町立亀田小学校に入学。

1958年 9歳
7月、父の転勤にともなって、家族で東京に。杉並区関根町に住み、杉並区立桃井第一小学校に転校。「東京の子」になる努力をしながら、マンガとテレビに熱中。画家大成瓢吉・節子夫妻に絵を習いはじめる。

1961年 12歳
杉並区立井荻中学校に入学。テレビ放映されだした新東宝の映画をこっそり見るのが楽しみ。マイナーなもの、B級映画的なものに引きつけられる傾向は、このへんから。

1962年 13歳
東京都北多摩郡国分寺町(1964年から国分寺市)に転居。元の住所に「寄留」して井荻中学に通いつづける。国分寺から西荻窪までの、中央線の各駅とその付近に詳しくなる。アメリカン・ポップスに夢中になり、1950年代後半のロックンロールまでさかのぼる。初期のプレスリーとジーン・ヴィンセントのレコードが宝物。芥川龍之介にもあこがれ、小説家になりたいと思った。

1963年 14歳
受験勉強の合間に、ヘリクツをこねて時間を盗み、新宿に遊びに行くようになる。

1964年 15歳
東京都立西高等学校に入学。入試の終わった日からドストエフスキーを読む。入学前の春休み、友人Hと毎日のように新宿の映画館に通い、映画を年に100本以上のペースで見るという「習慣」がそこからはじまる。新宿では、武蔵野推理劇場、日活名画座、シネマ新宿、新宿名画座、ローヤル劇場などに行き、新宿から立川までの各駅の映画館も全部行った。太宰治に最初にのぼせたのも、高1のころ。

1965年 16歳
大江健三郎に圧倒される。その一方で、ジャン=リュック・ゴダールの作品を見るたびに映画を撮りたくなり、8ミリ映画を作りはじめる。大島渚、増村保造、鈴木清順、石井輝男、井上昭、三隅研次、池広一夫、長谷部安春、ドン・シーゲル、サム・ペキンパー……。監督たちの名前をつぶやくだけで気分が高揚した。高2の途中から学校の勉強からは逃走する。

1966年 17歳
若松孝二と若松プロに関心が向かう。『裏切りの季節』と『壁の中の秘事』を上映した新宿の京王名画座の前で、若松孝二と大和屋竺に話しかける。若松プロに遊びに行くようになり、足立正生と沖島勲にも出会う。小川徹編集の「映画芸術」と佐藤重臣編集の「映画評論」を毎号読む。生意気ざかりで、プルースト、カフカ、フォークナー、そしてマルクス、フロイト、サルトルまで、理解はいいかげんなものだったが、人が自慢そうに読んだことを語る本は片っぱしから読んだ。

1967年 18歳
東京都立大学人文学部に入学。映研に入り、のちに撮影監督となる高間賢治と出会う。10月、都立大新聞主催の小説コンクールに「不完全な空白」で入選。現代詩の洗礼を受ける。とくに清水昶を追う。状況的には「嵐の季節」がはじまっていたが、クラス討論などで一部の学生たちの「まじめさ」「深刻さ」とは大きなズレを感じた。

1968年 19歳
大学2年になり、人文学部文学科英文学専攻に進む。篠田一士の授業でイギリス現代詩を読みはじめる。5月、小説『明後日は十七歳』(三一書房高校生新書)を刊行。その印税をもとに16ミリ映画を高間賢治の撮影で作りはじめる。5月、七字英輔たちと同人誌「守護神」を創刊する。この時期から翌年にかけて、若松プロの作品に出演。足立正生とよく会っていた。ノンポリであったが、大きな闘争があるときは野次馬的に見物に行った。刊行のはじまった思潮社現代詩文庫を徹底的に読む。とくに何度も読みかえしたベスト3は、吉岡実、谷川雁、天沢退二郎。英文学では、ディラン・トマスにふるえる。

1969年 20歳
5月、若松孝二監督『通り魔の告白 現代性犯罪暗黒篇』の脚本を書き、主演もする。俳優をやったのは、そこまでの半年ほど。映画『青春伝説序論』を完成。出品するつもりだった草月映画コンクールが「粉砕」され、一瞬、途方に暮れる。吉本隆明の存在が大きくなり、彼の主宰する雑誌「試行」の直接購読者になる。同人誌「はやにえ」に参加。翌年からは個人誌「全力疾走」も出す。表現のなかで詩が中心になっていくが、小説もむさぼり読み、とくに丸山健二、アラン・シリトー、ジョン・アップダイクに熱中。

1970年 21歳
徐々に北川透の詩論に共鳴していった。北川透主宰の「あんかるわ」に書きはじめる。ここから、1年に4回、「あんかるわ」に小詩集を発表するのがいちばん大事なことになる。「あんかるわ」以上に吉本隆明の影響の強い人たちの集まっていた「あぽりあ」にも書く。大学では、工藤昭雄の授業でW・H・オーデンを読む。「正常化」をいそぐ大学の、レポートだけで簡単に単位を取得できるようにした措置によって、4年で卒業できる見込みが出てきた。10月、卒論を書きはじめたころ、三島由紀夫の事件がおこった。

1971年 22歳
東京都立大学を卒業。卒業論文『スティーヴン・スペンダーの詩的営為』。指導教官は篠田一士。直接の指導は、工藤昭雄から受けていた。大学院に進むつもりだったが、受験直前にその気をなくし、1年間遊ぶことに。6月、母校の都立西高で教育実習。年末になって篠田一士に「ワルノリのつもりでいいから」大学院に進むように説得され、考えなおした。北川透に励まされて詩集を出すことになり、三部に分かれる「詩集1969〜1971」として構想。あんかるわ叢書から、7月に『沈黙と刺青』、11月に『冬の戒律』、翌年6月に『鬼になるまで』を出す。

1972年 23歳
東京都立大学大学院人文科学研究所修士課程に入学。英文学専攻。1年上に加藤光也がいた。大学院時代は、英文学の勉強以上に、フィルムセンターや文芸坐に通い、古い日本映画を見た。見ていない作品をやっていれば、かならず足を運んだ。ロック・ミュージックにも熱中(とくにT・レックス!)。中村とうよう編集の「ミュージック・マガジン」を毎号読む。塾講師のアルバイトをやりながら、映画、本、音楽、酒、そして人とつきあうことにいくらでも費やせる「ありあまる時間」があった季節。

1973年 24歳
大学院2年目。千石英世に出会う。英米文学を日本文学への関心にかさねて読むこと。彼と一緒にそれをやった。篠田一士の、世界の文学を横断する「態度の大きさ」に接するのが楽しかった。金関寿夫のパウンドの授業、鈴木建三のジョイスの授業などからも一生残るものを受けとった。「ユリイカ」1月号に作品「拒否」。続いて、同誌に「未成年」と「最後の授業」も発表するが、依頼された吉岡実論を書けなかった。この躓きを予兆とするように修士論文も書けなくなって、留年をつづけることになる。7月、佐藤泰志に出会う。

1974年 25歳
ボブ・ディランが、そのアルバム『プラネット・ウェイヴズ』以来、大きな存在になる。

1975年 26歳
ヘンリー・ミラーとJ・M・G・ル・クレジオに熱中。佐藤泰志とよく会った。

1976年 27歳
修士課程修了。修士論文『ディラン・トマスの初期の詩』。4月から1年間、石油ショックの直後の「実社会」のきびしさを体験。どうやって食っていくか。いろいろと試してみたが、笑い話のタネとなるような失敗の連続。試験での勝負強さはあり、東京都の教員試験に受かった。ボブ・マーリーなどのレゲエ、ラモーンズ、セックス・ピストルズ、クラッシュなどのパンクロックをいつも聴いていた。

1977年 28歳
東京都立杉並高校の、英語の教諭となる。同僚に水島英己がいた。臨海学校の引率に行き、砂浜で彼と相撲をとって思い切り投げられ、親しくなる。音楽シーン、エルヴィス・コステロの登場に拍手。12月、イギリス、スペイン、フランスに行く。

1978年 29歳
8月、ニューヨークに。毎日ロックコンサートに行きながら、映画への情熱をよみがえらせた。秋の終わりごろから、ある映画の脚本を頼まれて書くが、完成できず、これで映画界との縁も切れたかと落ち込んだ。

1979年 30歳
岡山大学教養部に英語の講師として赴任。岡山市に住む。しばらく詩も映画も忘れていようと思ったが、加藤健次、秋山基夫、境節などの詩人たち、そして映画好きの人たちに次々に出会っていった。由木しげる主宰の詩誌「オーバー・フェンス」に書くようになる。岡山に慣れるにつれ、大学院時代のような生活に。

1980年 31歳
イェイツ、エリオット、オーデン、トマスを主な対象とするイギリス現代詩の研究以外に、完成できない小説を書きちらしていた。詩も書きつづけるが、もうひとつ乗っていない。

1981年 32歳
本腰を入れてオーデンの詩を読み、高橋伴明監督の作品を中心にピンク映画を見まくっているうちに、この夏、突然、詩がどんどん書けるようになった。

1982年 33歳
10月、小宮山恵子と結婚。結婚直前から4か月ほど、岡山市中心部に近い旭川べりに住み、川の詩を書くようになる。

1983年 34歳
7月、藤井寛との共訳『カリガリ博士の子供たち』(S・S・ブロウアー著、晶文社)。12月、詩集『最後の授業/カントリー・ライフ』(私家版)。

1984年 35歳
佐藤泰志と5年ぶりに再会。東京都立大学人文学部に転任。国分寺市に住む。夏ごろから心身ともに不調に陥る。最終的に大阪に通って、「気」の研究家井村宏次の治療・指導を受ける。関西文化にあこがれた。快方に向かったところで太極拳をはじめ、さらに野口整体にも出会い、体について西洋医学とは完全にちがった考え方に立つようになる。恢復期。佐藤泰志に影響され、夫婦で競馬に熱中する。

1985年 36歳
2月、妻と出場した全日本マカロニ協会の「あつあつカップル・ブランチコンテスト」で優勝。つくったのは、動物を使わない「大根とあげのスパゲティ」。ヴェジタリアン時代の思い出。夏、その副賞の旅行でイタリア、フランス、スペインに行く。妻とともにスペインに強く引きつけられる。11月、エッセイ「病気のこと」(「オーバー・フェンス」第9号)。これで病気に決着をつける。アメリカの映画批評家ポーリン・ケイルに熱中。福岡の中村信昭の出していた「鷽」に映画関係の原稿を書きはじめる。

1986年 37歳
3月、国立市に転居。近所に、新井豊美。織田作之助に熱中。夏、ユーレイル・パスを使って、オランダ、フランス、スペイン、イタリアをまわる旅をした。

1987年 38歳
岡山の加藤健次が「防虫ダンス」を創刊。ここから2年間、同誌に精力的に書く。荒川洋治と女性詩人たちの仕事が視野に入ってきた。6月、「鷽」第8号に「石井輝男・夜の魅惑と恐怖」を発表。10月、石井輝男インタビューを開始する。暮れから翌年の正月にかけて、スペインに行く。

1988年 39歳
「詩学」で1年間、詩誌月評を担当。10月、詩集『急にたどりついてしまう』(ミッドナイト・プレス)。

1989年 40歳
4月、篠田一士死去。人が亡くなってほんとうに悲しいと感じた最初の体験。その悲しみは、もっと自分を見ていてほしかったという利己主義的な感じ方につながることにも気づく。ここから、こたえる人の死がつづく。6月、雑誌「ジライヤ」を創刊。妻に編集・制作の実務を担当してもらい、年3回のペースで出していった。10月、詩集『結婚入門』(雀社)。雀社は、中村信昭の兄修治のおこした出版社。12月、菅谷規矩雄死去。

1990年 41歳
1月、菅谷規矩雄の通夜で、4月から同僚となる瀬尾育生と初めて会う。3月、ウェールズとスペインに行く。9月、カセット詩集『地下帝国の死刑室』(音楽吉田孝之、ジライヤ・タッチ)。同月、詩集『地上のぬくもり』(雀社)。10月、佐藤泰志が自殺する。11月、鈴木志郎康と初めて会う。妻との暮らしぶりを撮影したいと言われる。12月、「あんかるわ」、第84号で終刊となる。

1991年 42歳
5月、「ジライヤ」第6号。佐藤泰志追悼特集。鈴木志郎康の映画『戸内のコア』公開。9月、詩集『行儀のわるいミス・ブラウン』(雀社)。その打ち合わせのために福岡に行って中村兄弟に会い、下関で北川透に会う。12月、ピアニスト大川由美子との、詩とピアノのライヴ「スペインで、夢のかたすみで」。音楽、「イカ天」から登場したブランキー・ジェット・シティに興奮。

1992年 43歳
「現代詩手帖」で1年間、「詩書月評」。1月、石井輝男との共著『石井輝男映画魂』(ワイズ出版)。9月、翻訳『東京日記』(リチャード・ブローティガン著、思潮社)。10月、詩集『きみたちは美人だ』(ワイズ出版)。同月、大川由美子とのライヴ「スペインで、夢のかたすみで」第2回。「新潮」11月号に長篇詩「いま、この谷間に、ぼくは投げおとされた」。

1993年 44歳 
1月、大和屋竺死去。5月から1年間、「現代詩手帖」の「新人作品」の選者。ともに選者となった新井豊美との行き来、ひんぱんになる。9月、山﨑幹夫との共編著『大ヤクザ映画読本』(洋泉社)。10月、編著『オーデン詩集』(中桐雅夫訳、小沢書店)。同月、辻仁成との朗読会「ことばの決闘’93」。このあと、辻仁成との朗読会はかたちを変えて3回おこなった。チャールズ・ブコウスキーを読む。

1994年 45歳
1月、詩集『旧世界』(思潮社)。同月、荒井晴彦・竹内銃一郎と編集委員をつとめた大和屋竺評論集『悪魔に委ねよ』刊行(ワイズ出版)。7月、翻訳『ビリー・ザ・キッド全仕事』(マイケル・オンダーチェ著、国書刊行会)。瀬々敬久をはじめとするピンク映画の若い監督たちとよく会うようになる。

1995年 46歳
1月、「ジライヤ」別冊・大和屋竺特集号を出す。同月、立花信次名義で脚本を書いたサトウトシキ監督作品『悶絶本番 ぶちこむ!!』公開。3月から4月にかけて劇場映画の第一作『急にたどりついてしまう』を撮影。オウムの地下鉄サリン事件の日にクランクイン。11月、同作品公開。

1996年 47歳
2月、「ジライヤ」第20号で終刊。5月、評論・インタビュー集『ピンク・ヌーヴェルヴァーグ』(ワイズ出版)。10月、『急にたどりついてしまう』でヴァンクーヴァー国際映画祭に招かれ、ホン・サンスをはじめとする韓国の監督たちと親しくなる。

1997年 48歳
1月、井家上隆幸、安岡卓治と編集委員をつとめた佐藤重臣評論集『祭りよ甦れ!』刊行(ワイズ出版)。3月、論文「戦争への旅――1930年代後半のオーデン」(「都立大学人文学報」第283号)。9月、韓国に行く。

1998年 49歳
4月、教授に昇任。5月、雨矢ふみえ、新井豊美、大日方公男、神山睦美、倉田比羽子、瀬尾育生、添田馨、宗近真一郎、横木徳久、吉田文憲とともに「GENIUS」を創刊(このメンバーで、国立市で読書会をおこなっていた。ここから通称「ゲニウスの会」というものになる。この会は、このあと読書会もつづけ、同人に水島英己、高貝弘也、杉本真維子が加わり、「GENIUS」を第4号まで出したのち、世紀が変わってからは簡素な造りで「進行中」の原稿を発表する「GIP」を隔月刊で発行し、2004年まで活動をつづける)。8月、「詩の雑誌 midnight press」でエッセイ「詩は生きている」の連載を開始する(2002年冬号まで)。9月から翌年の8月までの1年間、ウェールズ大学客員研究員として、ウェールズのカーディフに滞在。研究課題「ディラン・トマスの詩とケルト文化の詩的伝統」。ジョン・フリーマン、ロイド・ロブスンなどの詩人と親しくなる。11月、アイルランドに行く。滞在中、「現代詩手帖」に1年間、「ウェールズ通信」を連載。

1999年 50歳
3月、詩集『福間健二詩集』(思潮社現代詩文庫)。5月、ドイツ、ギリシャ、スペインをまわる旅。7月、スコットランドに。9月、帰国。何度目かの、太宰治への熱中。

2000年 51歳
2月から1年間、「現代詩手帖」に「一篇の詩を読む」を連載。3月、来日したマイケル・オンダーチェに会い、彼の小説『ライオンの皮をまとって』を翻訳することを約束する。6月、詩集『秋の理由』(思潮社)。香港の作家金庸の武侠小説にこの年から熱中。金庸を読みながら、チャールズ・ディケンズとスティーヴン・キングの面白さも再確認。

2001年 52歳
1月、切通理作とおこなってきたポルノ映画論の総まとめ的対談「Viva! Erotica」をふくむ『Pink & Porno 銀幕のエロティシズム』が出る(ネコ・パブリッシング)。3月、井坂洋子と「詩の朗読とトークの夕べ」。ジム・トムプスンを読みつづける。

2002年 53歳
2月、小池昌代との「詩の朗読とトークの夕べ」。4月から国立市公民館で隔週2時間ずつの全6回の講座「詩のワークショップ」。ここから現在まで毎年おこなっている。5月から1年間、二度目の、「現代詩手帖」の「新人作品」の選者。9月、父清蔵死去。

2003年 54歳
1月から2月にかけて、来日したロイド・ロブスンとともに朗読とトークを連続的におこなう。このころからヒップホップをよく聴くようになる。年末から翌年にかけて、ポルトガルに行く。

2004年 55歳
前年12月に出た「現代詩手帖」1月号から長篇詩『侵入し、通過してゆく』を連載。3月、石井辰彦と「詩の朗読とトークの夕べ」。8月、ウェールズとポルトガルに行く。

2005年 56歳
新井豊美、水島英己と連詩と朗読のチーム「FARM」を結成。2月に最初の朗読会をおこなう。FARMの活動は、2008年8月までつづく。4月、勤めている都立大学が首都大学東京になって、表象文化論分野に所属する。瀬尾育生も一緒。二人で自主講座「詩を読む・詩を書く」を開く。6月、評論集『詩は生きている』(五柳書院)。7月、詩集『侵入し、通過してゆく』(思潮社)。8月、石井輝男死去。9月、ブルガリア、マケドニア、ギリシャをまわる旅。

2006年 57歳
3月、ポルトガルに。スペインにも入る。大学での授業、映画はゴダール、詩は鈴木志郎康を思考の中心においてやっていくようになる。12月、翻訳『ライオンの皮をまとって』(マイケル・オンダーチェ著、水声社)。同月、高貝弘也、杉本真維子と「COW」を創刊。三人とも丑年生まれ。

2007年 58歳
夏、映画『岡山の娘』を撮影する。年頭からその準備をはじめ、秋からそのポストプロダクション。悩みつづけた。10月、解説を書いた『佐藤泰志作品集』刊行(クレイン)。

2008年 59歳
2月、中村信昭死去。5月、『岡山の娘』を完成させ、岡山で先行上映。夏、マカオに行く。11月、『岡山の娘』一般公開。首都大学東京の表象文化論分野のなかに瀬尾育生と「現代詩センター」をつくる。その機関誌「詩論へ」に同人として北川透と藤井貞和を招く。

2009年 60歳
3月、「詩論へ」第1号。連載「詩について語る」の第1回を発表。8月、ピアニスト大川由美子とのライヴ「あらしの季節」。青春18切符で東北を一周する。映画のシナリオを3本書くが、製作にこぎつけられなかった。五味川純平を読みつづける。ジル・ドゥルーズ、ちゃんと読めている気がしないのにいつのまにか大きな存在になっていた。

2010年 61歳
1月、札幌と小樽に行き、小林多喜二との新たな出会いを果たす。2月、「詩論へ」第2号の発行に合わせて、首都大学東京でイベント「世界のいま、詩のいま」。2月から1年間、「キネマ旬報」で映画評を連載。8月、映画『わたしたちの夏』を撮影する。

2011年 62歳
1月、映画『あるいは佐々木ユキ』を撮影する。3月、地震の起こる2時間前に成田を発って、ポルトガルを旅行する。5月、ツイッターで作品を発表しはじめる。同月、編者・解説を担当した佐藤泰志初期作品集『もうひとつの朝』刊行。7月、詩集『青い家』(思潮社)。8月、映画『わたしたちの夏』公開。9月、『青い家』で萩原朔太郎賞と藤村記念歴程賞を受ける。この年、三つの長篇詩「トモハル」「彼女のストライキ」「ご飯はできていない」を「現代詩手帖」に発表。

2012年 63歳
1月、新井豊美の死にショックを受ける。3月、Naked Loftで、せきしろ、小原早織とのイベント「詩を楽しもう Poetry for You」。同月、ポルトガルを旅行する。7月半ばから約2か月間にわたって、前橋文学館にて、第19回萩原朔太郎賞受賞者展覧会「福間健二 青い家にたどりつくまで」が開催される。そのイベントとして7月、荒川洋治との対談「言葉と世界」。8月、鹿児島「吉次郎」にて朗読会。同月、スロヴェニアでの詩のフェスティヴァル「Days of Poetry and Wine」に招かれる。10月、クロコダイル朗読会に参加。同月、国立「NO TRUNKS」にて三角みづ紀、ピアノの石田幹雄と朗読ライヴ。同月、若松孝二の交通事故死にショックを受ける。


                              (敬称は略しました)