詩集について 福間健二


『沈黙と刺青』 あんかるわ叢書 1971.7
『冬の戒律』 あんかるわ叢書 1971.11
『鬼になるまで』 あんかるわ叢書 1972.6

 この3冊は、「詩集1969〜1971」のⅠ、Ⅱ、Ⅲとして作った。
 詩を書きはじめたころ、ぼくがあこがれた詩人のひとりに、『疾走の終わり』という詩集で話題になった支路遺耕治さんがいた。彼は大阪で「他人の街」という雑誌を出していて、その購読者となったことから、手紙の行き来があった。その彼が「他人の街社」から詩集を出さないかと言ってきた。上京した彼と新宿で会ったときの興奮は忘れられない。彼は、サングラスにスーツの、かっこいいチンピラという感じだった。
 支路遺さんは、大阪に戻る途中、豊橋で北川透さんに会ってぼくの詩集の話をした。北川さんは、それまでも出ていた「あんかるわ叢書」を発展させたいと考えていて、ぼくの詩集はそこから出したいと言った。詩集を出したいと他の人が言ってくれることが稀なのに、それも二人の詩人に言ってもらったのだ。結局、「あんかるわ叢書」で、と話が進み、3冊を連続して出すことになった。なんと幸せなことであったろう。北川さんに編集してもらい、当時、「あんかるわ」には直接購読者が大勢いたこともあって、印税まで出る出版となった。発行者の「磯貝満」は、北川さんの本名である。
 三つに分けたそれぞれに「序詩」をつけ、書き下ろしのものも加えて出すことにしたのだと思う。112頁、152頁、190頁と、だんだん厚くなっている。
 いろんな影響が見える。このころ、こういうのを書いていたやつが何人かいましたね、と簡単に片付けられそうなところもある。言葉をどう繰り出していくかということでは、ここで付いてしまった癖があり、40年後のいまもそこから抜け出したとは言いがたい。3冊で70篇。この量が、自分だなと思う。まだそんなに生きていないのに、夢が破れ、おしよせる疲労感の波に対して「まだ若い!」と、ある意味であたりまえのことを必死に叫んでいる。ほんとうに若いのである。


『最後の授業/カントリー・ライフ』 私家版 1983.12
 三部詩集のあとの作品を集め、「詩集1972〜1983」として作った。
 この12年間は、徐々に、詩を中心にやっていくことにいや気がさしていって、小説を書いたり、映画をやろうとしたりしたけれど、やっぱり詩が大事なんだと思いなおすまでの時間だった。同時に、英文学の世界で、紆余曲折あったけれど、なんとか研究者として大学教師の口にありつき、胸を撫でおろした。そういう時間でもあった。
 岡山に来て4年目の1982年に結婚したが、そこから、編集者だった妻の友人・知人たちともつきあうようになり、そのなかのひとりで、当時、岡山のある出版社にいた三村誠一さんが、この私家版の詩集を作ってくれた。三村さんの、編集者としての仕事の厳密さには、感動した。93篇、542頁の厚さで、誤植がまったくないばかりか、すみずみに彼の目が行きとどいている。
 この詩集には、詳しいあとがきを書いた。その内容をここでくりかえさないが、大きく「最後の授業 1972〜1976」と「カントリー・ライフ 1977〜1983」の二部に分かれ、そのなかがまた分かれている。とりあえず、「だんだん言葉が平易になっていきますね」というところだ。
 これをだれがどう読んでくれるか。心配だったが、鈴木志郎康さんが「詩学」の月評であたたかい批評を書いてくれた。絶交中だった佐藤泰志に送ったら、とてもよろこんで、
北海道新聞に「夢みる力」というエッセイを書いて送ってくれた。この二つがとくにうれしかったことだ。
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『急にたどりついてしまう』 ミッドナイト・プレス 1988.10
 1984年に東京に戻ったが、しばらくして体調をくずした。体じゅうの筋肉と皮膚に症状が出た。「膠原病」の一種といっていいのかどうか、医者によって意見が分かれた。その病気と恢復期のことを書いているように見える作品が多い。しかし、半分近くは、東京に戻る前に書いたものである。病気を予感していたことになるかもしれない。ユーミンからエルヴィス・コステロにいたる、かっこいい「歌謡」の影響で、悲しい内容を書くことによるカタルシスを求めていたところもある。
 このなかの「むこうみず」の終結部、〈まちがっている/でも、ものすごくまちがっているわけじゃないだろう〉が、いまでもよく引き合いに出される。この居直り方、どうなのかという気もするけど、ぼくのものでは最大のヒット。サトウトシキ監督のために脚本を書いた『悶絶本番 ぶちこむ!!』(原題「ライク・ア・ローリング・ストーン」)でも、セリフに使った。
「急にたどりついてしまう」というフレーズは、目的の場所にたどりつかないカフカ的な彷徨で遊びすぎているかもしれない現代芸術のある側面に対して、人生の側からその逆を出してみようという発想であり、あとで映画のタイトルにも使い、これも、ぼくの仕事に付いてまわっている。そもそも、「……してしまう」という、いわば意識と無意識のあいだに身をおく言い方が、癖になっているということもある。
 1988年に「詩学」で詩誌月評を担当し、そのとき親しくなった岡田幸文さんが詩学社をやめて作ったミッドナイト・プレスという出版社から出る最初の詩集となった。『最後の授業/カントリー・ライフ』のあとで、今度は薄くて内容の充実した詩集を作りたいと思った。表紙は、谷川俊太郎さんの『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』が文字を縦にしているのを横にしたという感じ。荒川洋治さんが好意的に批評してくれ、吉本隆明さんからも心のこもった葉書をもらった。


『結婚入門』 雀社 1989.10 
 最初は、別な構想でまとめようとしていたのだが、二人称「きみ」に語りかける作品がかなりあることに気づき、それだけで一冊作れるかなと思ってやってみたら、わりといい感じになった。『急にたどりついてしまう』の延長線で、さらに親しみやすい詩集になってくれたら、という思いもあった。サブタイトルの英語、pleasure in marriage は、『結婚入門』というタイトルを借りた翻訳物の実用書の原題。
 ぼくは、福岡の中村信昭さんが出している「鷽」という雑誌に映画関係の原稿を書いていたのだが、その兄の修治さんは、印刷会社に勤務しながら、そこの印刷機を借りて本を作っていく雀社という出版社をやっていた。そこから出そうということになった。
 このころ、高いお金をかけて豪華な詩集を平気でつくる人たちに腹を立てていた。また、『最後の授業/カントリー・ライフ』と『急にたどりついてしまう』で大きな持ち出しをしている。それがいいはずもなかったので、中村兄弟と作戦を練った。信昭さんがタイプを打ち、修治さんが印刷して、ブックデザインは福間恵子。製本は、よそに頼む。ぼくの詩集は、売れたとしても200部がやっとだと考え、定価1500円でちゃんと回収できるのは15万円くらい。だから、300部を15万円で作った。『結婚入門』は話題になったけれど、地方小出版流通センターの扱いで限界もあり、計算を大きく上回るようなことにはならなかった。
 もうひとつ。『結婚入門』では、詩集の、本としての役割ということも考えた。内容的にそんなに役に立つというわけではないが、このタイトルには、結婚祝いなどにあげる本として使ってもらおうというアイディアがあった。


『地下帝国の死刑室』
 ジライヤ・タッチ 1990.9
 このカセットテープ詩集の、発想のおおもとは、やはり詩集を安く作ろうということ。一本100円のテープに音を入れ、それに詩を印刷した小冊子とケースの箱を付けて、300円くらいでできる。おっ、100本、3万円ではないかと思いついたのだ。実際には、いろいろと予想外のお金がかかっていったが、安く作ることができたのは確か。
 音楽の吉田孝之くんとの試行錯誤。なかなか思ったような音にならなかったのだ。最終的に、スタジオにお客さんに来てもらうスタジオ・ライヴで、ぼくが音楽なしで朗読し、それにあとから吉田くんが音楽を付けた。小冊子が先にできていて、音が完成したのはその1年後。
 1950年代の新東宝C級映画から盗んだタイトルに、内容は、当時熱中しはじめていたスペインをめぐるファンタジー。そして、ロック・フィーリング。現代詩、狭いところに縮こまってやっている人が多い。派手にやろうぜと思ったし、Jポップなんかに負けないよ、という気持ちがあった。


『地上のぬくもり』 雀社 1990.9
『結婚入門』のやり方でなんとか行けるということになり、経済的な心配もなくなった。そこで考えたのは、1年に一冊のペースで詩集を出していこうということ。
 一般論として、詩集を出すというのは、心理的にも大変である。悩みだしたら、きりがない。出すことに決めたのだから出すという以外に、切り抜けようのないところがある。もうひとつ。秋に出す。「今年の詩集」として間に合うように。それも考えた。そのためには、夏の一日、手もとにある詩篇を並べて一気に組み立ててしまう。『地下帝国の死刑室』と朗読会で身につけたライヴ感覚を、タイプ文字のページに踊らせようと考えた。
 すべて、中村兄弟との仕事だからできたことである。入稿から本の完成までに1か月かからない。この速度に対して、ぼくも言葉を走らせたのである。
「今年の詩集」。それを意識してもらうためのサブタイトルのPoems 1990 は、T・S・エリオットが『荒地』の前に出した詩集『Poems 1920』がヒント。ここで一九九〇年代に入った。それも言おうとしている。「地上のぬくもり」は、ズバリ、ぼくの求めつづけているもの。クライヴ・バーカーの恐怖小説を読んでいて見つけた言葉だと思い込んできた。どの小説のどこだったのか。もう10年以上、その記憶が曖昧になっている。
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『行儀のわるいミス・ブラウン』 雀社 1991.9
 この詩集の表紙は、普通なら本の最後に来る奥付と著者略歴を持ってきて、ローリング・ストーンズのアルバムのジャケットを真似たもので、とても気に入っている。
 1990年十月に親友の小説家佐藤泰志が自殺した。彼のことを思って書いた「国分寺1」「国分寺2」からはじまり、湾岸戦争のときに依頼されて「ペルシャ湾の原油にまみれたウミウ」の画像(実は、湾岸戦争とは関係のないものだったとあとでわかる)に向けて書いた「私は悲しまない」がその次につづく。あっという間に書いた作品だったが、あのとき、画像が画像でしかないことを見抜くことができたのは、うっかりミスの多いぼくにしては上出来のことだったとずっと感じてきた。
 表題作「行儀のわるいミス・ブラウン」は、大好きなアメリカの写真家ニコラス・ニクソンの写真から「霊感」を受けて書き、最後においた「マドンナ」は、マドンナというポップスターが放っているものをぼくの日常とスペイン旅行の記憶のなかにさまよわせた。
 この時期、詩を内容的にも形式的にも揺さぶりたいという気持ちがつよく、言葉を漫画のコマ割りのなかにおいてみたり、テレビドラマの主人公に語りかけたり、ディラン・トマスを登場させたり、という具合にいろんなことをやった。


『きみたちは美人だ 21 poems』 ワイズ出版 1992.10
 狙っていたことのひとつは、詩にポップ的要素を持ち込むということだった。表題作「きみたちは美人だ」をはじめとして、まず、こんなところから詩を書くのかという驚きをおこすような題材と書き方を求めていたと思う。「どうして詩でロックをやらなきゃいけないんですか?」と訝しがられたりもしたが、迷うことはなかった。シルヴィア・プラスも、セックス・ピストルズも、ブランキー・ジェット・シティも、「網走番外地」も出てくる。そして、「きたない仕事」はローリング・ストーンズ、「夜明けのあらし」はT・レックスからタイトルをもらった。
 しかし、うまく読者に出会えていないのではないか。そういうもどかしさもたまっていた。詩書専門店か特別な書店以外では注文でしか買えない地方小出版流通センターによる「流通」に対して、なんとかならないのかな、と思ったところで考えたのが、雀社(中村兄弟)で制作したものを『石井輝男映画魂』で親しくなったワイズ出版で売ってもらうというやり方。で、税込み980円の定価で勝負する。なかなかの作戦だと思ったのが、これはこれでややこしいことが多く、しかも普通の書店はじっくりと本をおいて売る余裕などない。現代詩に関心をもつ少数の読者、それだってなかなか詩集を買ってくれないが、それ以外の人たちに詩集を売るっていうのは、ほんとに簡単じゃないと思わされた。
「きみたちは美人だ」。それを黄色の地に赤い文字で打ち出して、21篇の詩で21世紀のドアをノックする。自分では、やれていると思っていたが、どうだったのだろうか。友人がこの詩集をつきあっている女性にプレゼントした。「なんなの、これ。ぜんぜんわかんない」と彼女は詩集を壁に叩きつけた。忘れられないエピソードである。


『旧世界』 思潮社 1994・1
『きみたちは美人だ』の最後においた「ウォーカーズ・ハイ」から、この詩集の「いま、この谷間に、ぼくは投げおとされた」「リサ、機械じかけの、明るい世界の」「彼女の問題、ぼくの問題」へと、気持ちよく、いくらでも広げられそうな時空のなかを大股と大きな身ぶりで行けるだけ行ってやろうと思って書くことができた。この体験。たくさんの詩人が仕事をしているなかで、自分はこれをやっていると誇れるものになった気がしていた。文字のレイアウトが気ままに動いていくのは、音楽的なドライヴ感を出したいというのがひとつ。それから、エズラ・パウンドの『キャントーズ』、とくにその「ピサン・キャントーズ 第83篇」の言葉の配置を真似したところがある。
 しかし、ヨーロッパの過去の挿話を語るパウンドの「内容」にクロスすることよりも、入沢康夫さん、菅谷規矩雄さんのやっているような彼岸との交通を、きょうのポップカルチャー、サブカルチャーに接したところでやりながら、いわば「戦後詩以前」のような確かさで地上に帰ってくる。そういうことを考えていた。
 表題作「旧世界」は、多くの詩人たちがまだしがみついているかもしれない芸術的ヨーロッパを模造的な素材で構成し、それを「地上のぬくもり」へと取り返そうというのが、ひとつのモティーフ。「旧世界」という言葉は、ヨーロッパのことであると同時に、実はまだわたしたちの生きている世界が、大事なところで新しくなっていないのではないかという気持ちで呼び出した。
 つきあいの長い編集者大日方公男さんとの仕事で、彼の書いてくれた帯の文章に、自分が何をやっているのかを教えられた気もする。
 思潮社からの、最初の詩集でもあった。ゲリラ的な迅速さで出してきた雀社のようには行かず、ここで一年一冊のペースが崩れた。いったん崩れてしまうと、緊張が抜けた感じになり、理由はそれだけではないが、このあと、しばらく詩集が出せなくなった。


福間健二詩集 思潮社現代詩文庫 1999.3
『旧世界』が1994年の一月に出て、その翌月にはこれを出そうと大日方さんは考えてくれていたのだが、ある事情からほぼ5年、発行が先のばしになってしまった。そのあいだに、ぼくは『急にたどりついてしまう』という映画をつくり、妻と出してきた「ジライヤ」も終刊となり、80年代後半からの「活動」に一区切りついたという感じになった。
 この詩集が出たときは、ウェ―ルズにいた。ウェールズ滞在中、瀬尾育生・信子夫妻にファックスでよく手紙を書いた。それもあって、瀬尾さんに詩人論を書いてもらった。そのなかで、ぼくがオーデンについて書いた論文「戦争への旅」(1998)が触れられている。その瀬尾さんの文章とぼくが書き加えたメモ以外は、5年前の時点で用意されていたものである。裏表紙の写真も、そうだった気がする。
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『秋の理由』 思潮社 2000.6
 ウェールズから戻ってすぐに作った詩集。表紙の写真は、アイルランド旅行中に立ち寄ったスレインという町の、The Poets Rest という名前のパブ。アイルランドは、とにかくギネスがめちゃくちゃおいしかった。ここから編集者髙木真史さんとの仕事になる。
 ウェ―ルズにいるときに発表した「愚か者」もふくめて、すべて、ウェ―ルズに行く前に書いたもので、そんなに描写はないけれど、風景としては、住んでいる国立と多摩川の川べり、新宿、遠い方では一時期よく遊びに行った鹿児島と1997年に旅行した韓国の田舎、そしてもっと昔に訪れたスペインが、自分には見えてくる。
 ただし、半分くらいの作品は、ウェールズから戻った99年の秋に手を入れている。いいことじゃないかもしれないけれど、ぼくはわりと平気で作品を直す。詩集を作るということに、その作っている「いま」が出るようなライヴ的感覚を忍ばせたいという気持ちがずっとあるというのが、理由のひとつ。
『旧世界』の走り方からすると、軌道修正的な、おとなしい書き方の作品が多いと思われたかもしれない。自分では多くの人に通じると考えている要素や部分でも、なかなかわかってもらえていない、ということを痛感していた。ミスティフィケーションで強度をつくることに疲労感をおぼえたというのも、事実だ。なにかのアンチを出していればよかった時期がすぎて、その先を歩いていると思うのだが、どの方向に行くのかわからなかった。
 表題作「秋の理由」は、キンモクセイの香りのなかで終わっている。どちらかといえば季節感に疎いぼくに、それを気づかせてくれたのは、国立まで遊びに来てくれたセネガルの映画作家ジブリル・マンベティで、この詩集が出たとき、彼はもう亡くなっていた。


『侵入し、通過してゆく』 思潮社 2005.7
「現代詩手帖」に一回だいたい百行の長さで13回連載したものに、「マイ・フェイヴァリット・シングズ」と題したノートを付けた。ノートの付いた詩集ということでは、エリオットや入沢康夫さんなどの仕事が頭にあったが、やってみると、こういうネタばらしは、見せると同時に隠すことにもなると気づかされた。また、文学における「引用」「言及」は、音楽ではヒップホップのサンプリングになる。発見でもなんでもないが、それを意識していることで現在の空気を呼び込んでいるという思いがあった。
  しかし、ものすごく新しいわけではない。「侵入し、通過してゆく」というタイトルをゴダールの『メイド・イン・USA』 (1966)のアンナ・カリーナのセリフから考えたことは、ノートに書いたが、1960年代後半に抱いた多くの「?」がぼくのなかでは終わっていなかった。さらに、勉強した英文学とのつながりを言えば、『秋の理由』はオーデン以後(1930年代)を生きようとしており、これはエリオット以後(1920年代)を生きようとしている。ぼくの「新しさ」は、まだそのへんにとどまっている。この「新しさ」に追いついてないものが、ぼくの中にも外にもたくさんあると感じているのだ。
 一篇の詩を、とくに「長さは自由です」と依頼されて書くことは、いつも大変である。しかし、100行の作品を13個作ってみろと製品のように注文されると、仕事がしやすいということがある。やってみたい実験のアイディアも、持ち込みたい材料も、ある程度の好奇心をもって本と映画と音楽に接しながら、人と生きていれば、いくらでも出てくる。書くということを、そういう「出会い」をアレンジして並べていく作業にしてしまおうと考えるのが、ぼくは好きなのである。書くというのは孤独な行為だが、ひとりで書いているのではないと感じていたい。音楽のように、ダンスのように、そして映画のように作りたい。一部の詩人たちからはバカにされそうな、そういう願いを少しでも実現した仕事だと思っている。
 コラージュ的。そのとおりだが、演技的だとしても「自分の声」が消えていないものにしたかった。しかし、当然のことながら、自分で(ひとつの声で)朗読するのがむずかしいものになった。
 一面では、旅の詩であり、とくに連載中に二度訪れたポルトガルのことを書くのが楽しかった。ノートを作っている最中に、妻とぼくにとって大切な友人であった鳥井美智子さんが亡くなった。ぼくの詩集では、唯一のハードカバー。


『青い家』 思潮社 2011.8
『侵入し、通過してゆく』の前に書いた作品がたまっていた。それをどう詩集にするか。
毎年のように詩集を出すと言いながら、迷ってしまい、出せなかった。迷いながら、さらに書いていったから、作品の数は増えていった。
 それを全部まとめて厚い一冊にする方針が立ったのは、2010年の3月の末ごろ。直接の引金は、藤本幸久監督の、8部構成、全部で8時間14分の『アメリカ―戦争する国の人びと』というドキュメンタリー映画を見たこと。藤本監督が「今回は長さのことは気にしなかった」と言うのを聞いて、これだと思った。
 そこから、ほぼ1年間にわたる編集作業。そのあいだに新しい作品も書き、『わたしたちの夏』と『あるいは佐々木ユキ』の二つの映画を撮影した。その1年間の最後のところで大震災がおこり、そのあと、「話しかける四月」と「よろこびの国」を書いて、ここまでと思った。この作り方は、あんかるわ叢書の三部詩集とも『最後の授業/カントリー・ライフ』とも似たところがあるだろうが、入稿後しばらくしてからの、編集者髙木真史さんと装幀者清岡秀哉さんとの打ち合わせの場面までは、そのことを意識していなかった。
 いままでやってきたことが、ここに全部出ていると思う。私小説的な、あるいは日記のような、生活の見せ方もしているが、表現の全体は、この自分がどうした、こうしたという次元を突き抜けたものになってほしいという願いをつよくもった。
 これを出して、何度目かのふりだしに戻ったという気持ちが、いまはある。
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