あるいは佐々木ユキ 公式blog

A Fairy Tale
福間健二監督作品  2013年/HD/カラー/79分

カテゴリ : All about Kenji Fukuma

HERE ARE SELECTED WORDS OF KENJI FUKUMA


いい気持ちだけど、さびしいよ
青い闇なのに
だれも青いことに気づかない
「急にたどりついてしまう」1985


映画史は、どこまできたのか。21世紀に入り、ペドロ・コスタ、ジャ・ジャンクー、ワン・ビンなどが低予算の条件と小さなカメラで切り開いた映画の「いま」。ずばり、「物語や主題に従属しない」と「世界にものを言う」が、劇映画とドキュメンタリーの境界をとっぱらうように出会っている。このことよりも大事な新展開があったとは思えない。
「『何も変えてはならない』について」2010


「美しい夢」と区別がつかない
魂の仕事を遅らせるために
ためらいと挨拶に青い溶岩を感じとって
舌をよろこばせてしまうキス、久しぶりにした。
「よろこびの国」2011


監督たちは、大ヴェテランから若手まで、しばしば、なんでそんな企画を引き受けたのかというような仕事をやらされている。それが、相も変らぬ日本映画の現状である。石井輝男は、そういう仕事をしなかった。魂を売り渡さなかったのである。多くの監督たちがしがみつきたがる大義名分とも、空虚なヒューマニズムとも、体制への迎合とも、大筋のところ、無縁であった。
「石井輝男の最後の闘い」2010


オーイ
今日はいいことがあるぞ!
「水色の蛇の夢」1980


性的な幻想の迷路から現実へと、小さな秘密(昔、先生とエッチした)から大きな秘密(いま、世界はどうなっているのか)へと折り返している。女性への、あがないと讃美の歌がひびく。女性に見てもらいたい。
「『結び目』について」2010


体をぬらすときは
どんなふうにぬらすのがいいのか、それはまだわからないけれど
「生きている者」1993


洗練されていないアジアがあり、濃淡のちがう縁でつながる愚かさの対立と連帯があり、「個人的なものではない人生」があり、「神でも人間でもない形式」への夢があって、ひとつひとつの小さな局面に、今日の不安のすべてを引きよせている。
「『ヘヴンズ ストーリー』について」2010


この世界には
楽しいことがいっぱいあって
不意打ちの、美しい目から
秋がはじまる
「秋の理由」1997


最後に登場する女性のアップの長まわしにずっと息の音が聞こえている。撮影する者の息である。人を撮ることへの、怯えをふくんだ必死さ。娼婦たちの詩への、精いっぱいの返礼となる、言葉にならない詩である。
「『LINE』について」 2010


世界はいつからこうだったのだろう
それはなぜだろう
「未来」2004


最後は「ノーコメント」の字幕。何も言うことはない。そうであるからこその、表現。映画、ヨーロッパ、人生。私はワクワクした。1960年代後半からの迷路に、いくつもの停止点を一気に接続するような閃光が何度も走った。新たにはじまる夢と幻滅。まだやれるよ、と答えたい。
「『ゴダール・ソシアリズム』について」2010


墓場から転がってくる太陽の非難をあびながら
無数のおれが鎌を握る この熱い目ざめの
裂けた先端はだれにもさわらせない!             
「拒否」1972


田中裕子も淡島千景もどうしてこんなにいいのか。とくに後者は奇跡的と言いたくなるオーラを放つ。
「『春との旅』について」2010


「人に嘘をついても
自分を欺しちゃいけないよ」
「なっちゃんの町」1990


みんなに同じようにやさしくしなくてもいい。そのかわり、この人はと思ったらその人の世話は徹底的にやる。若いスタッフにいつも言っていることだとして、ある施設の代表がこういう意味のことを言う。これはすごくいいと思った。
「『ただいま  それぞれの居場所』について」 2010


ぼくは来た
ぼくは行ってしまう
ぼくはまだ黒い芯を昂らせている
「ぼくはまだ黒い芯を昂らせている」1993


夢を裏切りつづけた20世紀の、そしてそれを描いてきた映画史の、いちばん切実な痛点。地平の広がりのなかにそれを確かめながら、その上に永遠を感じさせる大きな空をおく。うれしかった。何よりも、こういう美しさを忘れない表現ジャンルとして、映画は存在するのだ。
「『ジャライノール』について」 2011


まちがっている
でも、ものすごくまちがっているわけじゃないだろう
「むこうみず」1983




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詩集について 福間健二


『沈黙と刺青』 あんかるわ叢書 1971.7
『冬の戒律』 あんかるわ叢書 1971.11
『鬼になるまで』 あんかるわ叢書 1972.6

 この3冊は、「詩集1969〜1971」のⅠ、Ⅱ、Ⅲとして作った。
 詩を書きはじめたころ、ぼくがあこがれた詩人のひとりに、『疾走の終わり』という詩集で話題になった支路遺耕治さんがいた。彼は大阪で「他人の街」という雑誌を出していて、その購読者となったことから、手紙の行き来があった。その彼が「他人の街社」から詩集を出さないかと言ってきた。上京した彼と新宿で会ったときの興奮は忘れられない。彼は、サングラスにスーツの、かっこいいチンピラという感じだった。
 支路遺さんは、大阪に戻る途中、豊橋で北川透さんに会ってぼくの詩集の話をした。北川さんは、それまでも出ていた「あんかるわ叢書」を発展させたいと考えていて、ぼくの詩集はそこから出したいと言った。詩集を出したいと他の人が言ってくれることが稀なのに、それも二人の詩人に言ってもらったのだ。結局、「あんかるわ叢書」で、と話が進み、3冊を連続して出すことになった。なんと幸せなことであったろう。北川さんに編集してもらい、当時、「あんかるわ」には直接購読者が大勢いたこともあって、印税まで出る出版となった。発行者の「磯貝満」は、北川さんの本名である。
 三つに分けたそれぞれに「序詩」をつけ、書き下ろしのものも加えて出すことにしたのだと思う。112頁、152頁、190頁と、だんだん厚くなっている。
 いろんな影響が見える。このころ、こういうのを書いていたやつが何人かいましたね、と簡単に片付けられそうなところもある。言葉をどう繰り出していくかということでは、ここで付いてしまった癖があり、40年後のいまもそこから抜け出したとは言いがたい。3冊で70篇。この量が、自分だなと思う。まだそんなに生きていないのに、夢が破れ、おしよせる疲労感の波に対して「まだ若い!」と、ある意味であたりまえのことを必死に叫んでいる。ほんとうに若いのである。


『最後の授業/カントリー・ライフ』 私家版 1983.12
 三部詩集のあとの作品を集め、「詩集1972〜1983」として作った。
 この12年間は、徐々に、詩を中心にやっていくことにいや気がさしていって、小説を書いたり、映画をやろうとしたりしたけれど、やっぱり詩が大事なんだと思いなおすまでの時間だった。同時に、英文学の世界で、紆余曲折あったけれど、なんとか研究者として大学教師の口にありつき、胸を撫でおろした。そういう時間でもあった。
 岡山に来て4年目の1982年に結婚したが、そこから、編集者だった妻の友人・知人たちともつきあうようになり、そのなかのひとりで、当時、岡山のある出版社にいた三村誠一さんが、この私家版の詩集を作ってくれた。三村さんの、編集者としての仕事の厳密さには、感動した。93篇、542頁の厚さで、誤植がまったくないばかりか、すみずみに彼の目が行きとどいている。
 この詩集には、詳しいあとがきを書いた。その内容をここでくりかえさないが、大きく「最後の授業 1972〜1976」と「カントリー・ライフ 1977〜1983」の二部に分かれ、そのなかがまた分かれている。とりあえず、「だんだん言葉が平易になっていきますね」というところだ。
 これをだれがどう読んでくれるか。心配だったが、鈴木志郎康さんが「詩学」の月評であたたかい批評を書いてくれた。絶交中だった佐藤泰志に送ったら、とてもよろこんで、
北海道新聞に「夢みる力」というエッセイを書いて送ってくれた。この二つがとくにうれしかったことだ。
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『急にたどりついてしまう』 ミッドナイト・プレス 1988.10
 1984年に東京に戻ったが、しばらくして体調をくずした。体じゅうの筋肉と皮膚に症状が出た。「膠原病」の一種といっていいのかどうか、医者によって意見が分かれた。その病気と恢復期のことを書いているように見える作品が多い。しかし、半分近くは、東京に戻る前に書いたものである。病気を予感していたことになるかもしれない。ユーミンからエルヴィス・コステロにいたる、かっこいい「歌謡」の影響で、悲しい内容を書くことによるカタルシスを求めていたところもある。
 このなかの「むこうみず」の終結部、〈まちがっている/でも、ものすごくまちがっているわけじゃないだろう〉が、いまでもよく引き合いに出される。この居直り方、どうなのかという気もするけど、ぼくのものでは最大のヒット。サトウトシキ監督のために脚本を書いた『悶絶本番 ぶちこむ!!』(原題「ライク・ア・ローリング・ストーン」)でも、セリフに使った。
「急にたどりついてしまう」というフレーズは、目的の場所にたどりつかないカフカ的な彷徨で遊びすぎているかもしれない現代芸術のある側面に対して、人生の側からその逆を出してみようという発想であり、あとで映画のタイトルにも使い、これも、ぼくの仕事に付いてまわっている。そもそも、「……してしまう」という、いわば意識と無意識のあいだに身をおく言い方が、癖になっているということもある。
 1988年に「詩学」で詩誌月評を担当し、そのとき親しくなった岡田幸文さんが詩学社をやめて作ったミッドナイト・プレスという出版社から出る最初の詩集となった。『最後の授業/カントリー・ライフ』のあとで、今度は薄くて内容の充実した詩集を作りたいと思った。表紙は、谷川俊太郎さんの『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』が文字を縦にしているのを横にしたという感じ。荒川洋治さんが好意的に批評してくれ、吉本隆明さんからも心のこもった葉書をもらった。


『結婚入門』 雀社 1989.10 
 最初は、別な構想でまとめようとしていたのだが、二人称「きみ」に語りかける作品がかなりあることに気づき、それだけで一冊作れるかなと思ってやってみたら、わりといい感じになった。『急にたどりついてしまう』の延長線で、さらに親しみやすい詩集になってくれたら、という思いもあった。サブタイトルの英語、pleasure in marriage は、『結婚入門』というタイトルを借りた翻訳物の実用書の原題。
 ぼくは、福岡の中村信昭さんが出している「鷽」という雑誌に映画関係の原稿を書いていたのだが、その兄の修治さんは、印刷会社に勤務しながら、そこの印刷機を借りて本を作っていく雀社という出版社をやっていた。そこから出そうということになった。
 このころ、高いお金をかけて豪華な詩集を平気でつくる人たちに腹を立てていた。また、『最後の授業/カントリー・ライフ』と『急にたどりついてしまう』で大きな持ち出しをしている。それがいいはずもなかったので、中村兄弟と作戦を練った。信昭さんがタイプを打ち、修治さんが印刷して、ブックデザインは福間恵子。製本は、よそに頼む。ぼくの詩集は、売れたとしても200部がやっとだと考え、定価1500円でちゃんと回収できるのは15万円くらい。だから、300部を15万円で作った。『結婚入門』は話題になったけれど、地方小出版流通センターの扱いで限界もあり、計算を大きく上回るようなことにはならなかった。
 もうひとつ。『結婚入門』では、詩集の、本としての役割ということも考えた。内容的にそんなに役に立つというわけではないが、このタイトルには、結婚祝いなどにあげる本として使ってもらおうというアイディアがあった。


『地下帝国の死刑室』
 ジライヤ・タッチ 1990.9
 このカセットテープ詩集の、発想のおおもとは、やはり詩集を安く作ろうということ。一本100円のテープに音を入れ、それに詩を印刷した小冊子とケースの箱を付けて、300円くらいでできる。おっ、100本、3万円ではないかと思いついたのだ。実際には、いろいろと予想外のお金がかかっていったが、安く作ることができたのは確か。
 音楽の吉田孝之くんとの試行錯誤。なかなか思ったような音にならなかったのだ。最終的に、スタジオにお客さんに来てもらうスタジオ・ライヴで、ぼくが音楽なしで朗読し、それにあとから吉田くんが音楽を付けた。小冊子が先にできていて、音が完成したのはその1年後。
 1950年代の新東宝C級映画から盗んだタイトルに、内容は、当時熱中しはじめていたスペインをめぐるファンタジー。そして、ロック・フィーリング。現代詩、狭いところに縮こまってやっている人が多い。派手にやろうぜと思ったし、Jポップなんかに負けないよ、という気持ちがあった。


『地上のぬくもり』 雀社 1990.9
『結婚入門』のやり方でなんとか行けるということになり、経済的な心配もなくなった。そこで考えたのは、1年に一冊のペースで詩集を出していこうということ。
 一般論として、詩集を出すというのは、心理的にも大変である。悩みだしたら、きりがない。出すことに決めたのだから出すという以外に、切り抜けようのないところがある。もうひとつ。秋に出す。「今年の詩集」として間に合うように。それも考えた。そのためには、夏の一日、手もとにある詩篇を並べて一気に組み立ててしまう。『地下帝国の死刑室』と朗読会で身につけたライヴ感覚を、タイプ文字のページに踊らせようと考えた。
 すべて、中村兄弟との仕事だからできたことである。入稿から本の完成までに1か月かからない。この速度に対して、ぼくも言葉を走らせたのである。
「今年の詩集」。それを意識してもらうためのサブタイトルのPoems 1990 は、T・S・エリオットが『荒地』の前に出した詩集『Poems 1920』がヒント。ここで一九九〇年代に入った。それも言おうとしている。「地上のぬくもり」は、ズバリ、ぼくの求めつづけているもの。クライヴ・バーカーの恐怖小説を読んでいて見つけた言葉だと思い込んできた。どの小説のどこだったのか。もう10年以上、その記憶が曖昧になっている。
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『行儀のわるいミス・ブラウン』 雀社 1991.9
 この詩集の表紙は、普通なら本の最後に来る奥付と著者略歴を持ってきて、ローリング・ストーンズのアルバムのジャケットを真似たもので、とても気に入っている。
 1990年十月に親友の小説家佐藤泰志が自殺した。彼のことを思って書いた「国分寺1」「国分寺2」からはじまり、湾岸戦争のときに依頼されて「ペルシャ湾の原油にまみれたウミウ」の画像(実は、湾岸戦争とは関係のないものだったとあとでわかる)に向けて書いた「私は悲しまない」がその次につづく。あっという間に書いた作品だったが、あのとき、画像が画像でしかないことを見抜くことができたのは、うっかりミスの多いぼくにしては上出来のことだったとずっと感じてきた。
 表題作「行儀のわるいミス・ブラウン」は、大好きなアメリカの写真家ニコラス・ニクソンの写真から「霊感」を受けて書き、最後においた「マドンナ」は、マドンナというポップスターが放っているものをぼくの日常とスペイン旅行の記憶のなかにさまよわせた。
 この時期、詩を内容的にも形式的にも揺さぶりたいという気持ちがつよく、言葉を漫画のコマ割りのなかにおいてみたり、テレビドラマの主人公に語りかけたり、ディラン・トマスを登場させたり、という具合にいろんなことをやった。


『きみたちは美人だ 21 poems』 ワイズ出版 1992.10
 狙っていたことのひとつは、詩にポップ的要素を持ち込むということだった。表題作「きみたちは美人だ」をはじめとして、まず、こんなところから詩を書くのかという驚きをおこすような題材と書き方を求めていたと思う。「どうして詩でロックをやらなきゃいけないんですか?」と訝しがられたりもしたが、迷うことはなかった。シルヴィア・プラスも、セックス・ピストルズも、ブランキー・ジェット・シティも、「網走番外地」も出てくる。そして、「きたない仕事」はローリング・ストーンズ、「夜明けのあらし」はT・レックスからタイトルをもらった。
 しかし、うまく読者に出会えていないのではないか。そういうもどかしさもたまっていた。詩書専門店か特別な書店以外では注文でしか買えない地方小出版流通センターによる「流通」に対して、なんとかならないのかな、と思ったところで考えたのが、雀社(中村兄弟)で制作したものを『石井輝男映画魂』で親しくなったワイズ出版で売ってもらうというやり方。で、税込み980円の定価で勝負する。なかなかの作戦だと思ったのが、これはこれでややこしいことが多く、しかも普通の書店はじっくりと本をおいて売る余裕などない。現代詩に関心をもつ少数の読者、それだってなかなか詩集を買ってくれないが、それ以外の人たちに詩集を売るっていうのは、ほんとに簡単じゃないと思わされた。
「きみたちは美人だ」。それを黄色の地に赤い文字で打ち出して、21篇の詩で21世紀のドアをノックする。自分では、やれていると思っていたが、どうだったのだろうか。友人がこの詩集をつきあっている女性にプレゼントした。「なんなの、これ。ぜんぜんわかんない」と彼女は詩集を壁に叩きつけた。忘れられないエピソードである。


『旧世界』 思潮社 1994・1
『きみたちは美人だ』の最後においた「ウォーカーズ・ハイ」から、この詩集の「いま、この谷間に、ぼくは投げおとされた」「リサ、機械じかけの、明るい世界の」「彼女の問題、ぼくの問題」へと、気持ちよく、いくらでも広げられそうな時空のなかを大股と大きな身ぶりで行けるだけ行ってやろうと思って書くことができた。この体験。たくさんの詩人が仕事をしているなかで、自分はこれをやっていると誇れるものになった気がしていた。文字のレイアウトが気ままに動いていくのは、音楽的なドライヴ感を出したいというのがひとつ。それから、エズラ・パウンドの『キャントーズ』、とくにその「ピサン・キャントーズ 第83篇」の言葉の配置を真似したところがある。
 しかし、ヨーロッパの過去の挿話を語るパウンドの「内容」にクロスすることよりも、入沢康夫さん、菅谷規矩雄さんのやっているような彼岸との交通を、きょうのポップカルチャー、サブカルチャーに接したところでやりながら、いわば「戦後詩以前」のような確かさで地上に帰ってくる。そういうことを考えていた。
 表題作「旧世界」は、多くの詩人たちがまだしがみついているかもしれない芸術的ヨーロッパを模造的な素材で構成し、それを「地上のぬくもり」へと取り返そうというのが、ひとつのモティーフ。「旧世界」という言葉は、ヨーロッパのことであると同時に、実はまだわたしたちの生きている世界が、大事なところで新しくなっていないのではないかという気持ちで呼び出した。
 つきあいの長い編集者大日方公男さんとの仕事で、彼の書いてくれた帯の文章に、自分が何をやっているのかを教えられた気もする。
 思潮社からの、最初の詩集でもあった。ゲリラ的な迅速さで出してきた雀社のようには行かず、ここで一年一冊のペースが崩れた。いったん崩れてしまうと、緊張が抜けた感じになり、理由はそれだけではないが、このあと、しばらく詩集が出せなくなった。


福間健二詩集 思潮社現代詩文庫 1999.3
『旧世界』が1994年の一月に出て、その翌月にはこれを出そうと大日方さんは考えてくれていたのだが、ある事情からほぼ5年、発行が先のばしになってしまった。そのあいだに、ぼくは『急にたどりついてしまう』という映画をつくり、妻と出してきた「ジライヤ」も終刊となり、80年代後半からの「活動」に一区切りついたという感じになった。
 この詩集が出たときは、ウェ―ルズにいた。ウェールズ滞在中、瀬尾育生・信子夫妻にファックスでよく手紙を書いた。それもあって、瀬尾さんに詩人論を書いてもらった。そのなかで、ぼくがオーデンについて書いた論文「戦争への旅」(1998)が触れられている。その瀬尾さんの文章とぼくが書き加えたメモ以外は、5年前の時点で用意されていたものである。裏表紙の写真も、そうだった気がする。
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『秋の理由』 思潮社 2000.6
 ウェールズから戻ってすぐに作った詩集。表紙の写真は、アイルランド旅行中に立ち寄ったスレインという町の、The Poets Rest という名前のパブ。アイルランドは、とにかくギネスがめちゃくちゃおいしかった。ここから編集者髙木真史さんとの仕事になる。
 ウェ―ルズにいるときに発表した「愚か者」もふくめて、すべて、ウェ―ルズに行く前に書いたもので、そんなに描写はないけれど、風景としては、住んでいる国立と多摩川の川べり、新宿、遠い方では一時期よく遊びに行った鹿児島と1997年に旅行した韓国の田舎、そしてもっと昔に訪れたスペインが、自分には見えてくる。
 ただし、半分くらいの作品は、ウェールズから戻った99年の秋に手を入れている。いいことじゃないかもしれないけれど、ぼくはわりと平気で作品を直す。詩集を作るということに、その作っている「いま」が出るようなライヴ的感覚を忍ばせたいという気持ちがずっとあるというのが、理由のひとつ。
『旧世界』の走り方からすると、軌道修正的な、おとなしい書き方の作品が多いと思われたかもしれない。自分では多くの人に通じると考えている要素や部分でも、なかなかわかってもらえていない、ということを痛感していた。ミスティフィケーションで強度をつくることに疲労感をおぼえたというのも、事実だ。なにかのアンチを出していればよかった時期がすぎて、その先を歩いていると思うのだが、どの方向に行くのかわからなかった。
 表題作「秋の理由」は、キンモクセイの香りのなかで終わっている。どちらかといえば季節感に疎いぼくに、それを気づかせてくれたのは、国立まで遊びに来てくれたセネガルの映画作家ジブリル・マンベティで、この詩集が出たとき、彼はもう亡くなっていた。


『侵入し、通過してゆく』 思潮社 2005.7
「現代詩手帖」に一回だいたい百行の長さで13回連載したものに、「マイ・フェイヴァリット・シングズ」と題したノートを付けた。ノートの付いた詩集ということでは、エリオットや入沢康夫さんなどの仕事が頭にあったが、やってみると、こういうネタばらしは、見せると同時に隠すことにもなると気づかされた。また、文学における「引用」「言及」は、音楽ではヒップホップのサンプリングになる。発見でもなんでもないが、それを意識していることで現在の空気を呼び込んでいるという思いがあった。
  しかし、ものすごく新しいわけではない。「侵入し、通過してゆく」というタイトルをゴダールの『メイド・イン・USA』 (1966)のアンナ・カリーナのセリフから考えたことは、ノートに書いたが、1960年代後半に抱いた多くの「?」がぼくのなかでは終わっていなかった。さらに、勉強した英文学とのつながりを言えば、『秋の理由』はオーデン以後(1930年代)を生きようとしており、これはエリオット以後(1920年代)を生きようとしている。ぼくの「新しさ」は、まだそのへんにとどまっている。この「新しさ」に追いついてないものが、ぼくの中にも外にもたくさんあると感じているのだ。
 一篇の詩を、とくに「長さは自由です」と依頼されて書くことは、いつも大変である。しかし、100行の作品を13個作ってみろと製品のように注文されると、仕事がしやすいということがある。やってみたい実験のアイディアも、持ち込みたい材料も、ある程度の好奇心をもって本と映画と音楽に接しながら、人と生きていれば、いくらでも出てくる。書くということを、そういう「出会い」をアレンジして並べていく作業にしてしまおうと考えるのが、ぼくは好きなのである。書くというのは孤独な行為だが、ひとりで書いているのではないと感じていたい。音楽のように、ダンスのように、そして映画のように作りたい。一部の詩人たちからはバカにされそうな、そういう願いを少しでも実現した仕事だと思っている。
 コラージュ的。そのとおりだが、演技的だとしても「自分の声」が消えていないものにしたかった。しかし、当然のことながら、自分で(ひとつの声で)朗読するのがむずかしいものになった。
 一面では、旅の詩であり、とくに連載中に二度訪れたポルトガルのことを書くのが楽しかった。ノートを作っている最中に、妻とぼくにとって大切な友人であった鳥井美智子さんが亡くなった。ぼくの詩集では、唯一のハードカバー。


『青い家』 思潮社 2011.8
『侵入し、通過してゆく』の前に書いた作品がたまっていた。それをどう詩集にするか。
毎年のように詩集を出すと言いながら、迷ってしまい、出せなかった。迷いながら、さらに書いていったから、作品の数は増えていった。
 それを全部まとめて厚い一冊にする方針が立ったのは、2010年の3月の末ごろ。直接の引金は、藤本幸久監督の、8部構成、全部で8時間14分の『アメリカ―戦争する国の人びと』というドキュメンタリー映画を見たこと。藤本監督が「今回は長さのことは気にしなかった」と言うのを聞いて、これだと思った。
 そこから、ほぼ1年間にわたる編集作業。そのあいだに新しい作品も書き、『わたしたちの夏』と『あるいは佐々木ユキ』の二つの映画を撮影した。その1年間の最後のところで大震災がおこり、そのあと、「話しかける四月」と「よろこびの国」を書いて、ここまでと思った。この作り方は、あんかるわ叢書の三部詩集とも『最後の授業/カントリー・ライフ』とも似たところがあるだろうが、入稿後しばらくしてからの、編集者髙木真史さんと装幀者清岡秀哉さんとの打ち合わせの場面までは、そのことを意識していなかった。
 いままでやってきたことが、ここに全部出ていると思う。私小説的な、あるいは日記のような、生活の見せ方もしているが、表現の全体は、この自分がどうした、こうしたという次元を突き抜けたものになってほしいという願いをつよくもった。
 これを出して、何度目かのふりだしに戻ったという気持ちが、いまはある。
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福間健二年譜


1949年 0歳
新潟県中蒲原郡亀田町(2005年に新潟市に編入合併)に生まれる。父清蔵、母澄子の次男として。両親とも島根県出身。3年前に兄が亡くなっていた。2年後に弟が生まれ、4人家族となる。父は、新潟では有名な新潟鉄工所に勤務。亀田は、越乃寒梅や亀田製菓のあられの故郷。

1955年 6歳
亀田町立亀田小学校に入学。

1958年 9歳
7月、父の転勤にともなって、家族で東京に。杉並区関根町に住み、杉並区立桃井第一小学校に転校。「東京の子」になる努力をしながら、マンガとテレビに熱中。画家大成瓢吉・節子夫妻に絵を習いはじめる。

1961年 12歳
杉並区立井荻中学校に入学。テレビ放映されだした新東宝の映画をこっそり見るのが楽しみ。マイナーなもの、B級映画的なものに引きつけられる傾向は、このへんから。

1962年 13歳
東京都北多摩郡国分寺町(1964年から国分寺市)に転居。元の住所に「寄留」して井荻中学に通いつづける。国分寺から西荻窪までの、中央線の各駅とその付近に詳しくなる。アメリカン・ポップスに夢中になり、1950年代後半のロックンロールまでさかのぼる。初期のプレスリーとジーン・ヴィンセントのレコードが宝物。芥川龍之介にもあこがれ、小説家になりたいと思った。

1963年 14歳
受験勉強の合間に、ヘリクツをこねて時間を盗み、新宿に遊びに行くようになる。

1964年 15歳
東京都立西高等学校に入学。入試の終わった日からドストエフスキーを読む。入学前の春休み、友人Hと毎日のように新宿の映画館に通い、映画を年に100本以上のペースで見るという「習慣」がそこからはじまる。新宿では、武蔵野推理劇場、日活名画座、シネマ新宿、新宿名画座、ローヤル劇場などに行き、新宿から立川までの各駅の映画館も全部行った。太宰治に最初にのぼせたのも、高1のころ。

1965年 16歳
大江健三郎に圧倒される。その一方で、ジャン=リュック・ゴダールの作品を見るたびに映画を撮りたくなり、8ミリ映画を作りはじめる。大島渚、増村保造、鈴木清順、石井輝男、井上昭、三隅研次、池広一夫、長谷部安春、ドン・シーゲル、サム・ペキンパー……。監督たちの名前をつぶやくだけで気分が高揚した。高2の途中から学校の勉強からは逃走する。

1966年 17歳
若松孝二と若松プロに関心が向かう。『裏切りの季節』と『壁の中の秘事』を上映した新宿の京王名画座の前で、若松孝二と大和屋竺に話しかける。若松プロに遊びに行くようになり、足立正生と沖島勲にも出会う。小川徹編集の「映画芸術」と佐藤重臣編集の「映画評論」を毎号読む。生意気ざかりで、プルースト、カフカ、フォークナー、そしてマルクス、フロイト、サルトルまで、理解はいいかげんなものだったが、人が自慢そうに読んだことを語る本は片っぱしから読んだ。

1967年 18歳
東京都立大学人文学部に入学。映研に入り、のちに撮影監督となる高間賢治と出会う。10月、都立大新聞主催の小説コンクールに「不完全な空白」で入選。現代詩の洗礼を受ける。とくに清水昶を追う。状況的には「嵐の季節」がはじまっていたが、クラス討論などで一部の学生たちの「まじめさ」「深刻さ」とは大きなズレを感じた。

1968年 19歳
大学2年になり、人文学部文学科英文学専攻に進む。篠田一士の授業でイギリス現代詩を読みはじめる。5月、小説『明後日は十七歳』(三一書房高校生新書)を刊行。その印税をもとに16ミリ映画を高間賢治の撮影で作りはじめる。5月、七字英輔たちと同人誌「守護神」を創刊する。この時期から翌年にかけて、若松プロの作品に出演。足立正生とよく会っていた。ノンポリであったが、大きな闘争があるときは野次馬的に見物に行った。刊行のはじまった思潮社現代詩文庫を徹底的に読む。とくに何度も読みかえしたベスト3は、吉岡実、谷川雁、天沢退二郎。英文学では、ディラン・トマスにふるえる。

1969年 20歳
5月、若松孝二監督『通り魔の告白 現代性犯罪暗黒篇』の脚本を書き、主演もする。俳優をやったのは、そこまでの半年ほど。映画『青春伝説序論』を完成。出品するつもりだった草月映画コンクールが「粉砕」され、一瞬、途方に暮れる。吉本隆明の存在が大きくなり、彼の主宰する雑誌「試行」の直接購読者になる。同人誌「はやにえ」に参加。翌年からは個人誌「全力疾走」も出す。表現のなかで詩が中心になっていくが、小説もむさぼり読み、とくに丸山健二、アラン・シリトー、ジョン・アップダイクに熱中。

1970年 21歳
徐々に北川透の詩論に共鳴していった。北川透主宰の「あんかるわ」に書きはじめる。ここから、1年に4回、「あんかるわ」に小詩集を発表するのがいちばん大事なことになる。「あんかるわ」以上に吉本隆明の影響の強い人たちの集まっていた「あぽりあ」にも書く。大学では、工藤昭雄の授業でW・H・オーデンを読む。「正常化」をいそぐ大学の、レポートだけで簡単に単位を取得できるようにした措置によって、4年で卒業できる見込みが出てきた。10月、卒論を書きはじめたころ、三島由紀夫の事件がおこった。

1971年 22歳
東京都立大学を卒業。卒業論文『スティーヴン・スペンダーの詩的営為』。指導教官は篠田一士。直接の指導は、工藤昭雄から受けていた。大学院に進むつもりだったが、受験直前にその気をなくし、1年間遊ぶことに。6月、母校の都立西高で教育実習。年末になって篠田一士に「ワルノリのつもりでいいから」大学院に進むように説得され、考えなおした。北川透に励まされて詩集を出すことになり、三部に分かれる「詩集1969〜1971」として構想。あんかるわ叢書から、7月に『沈黙と刺青』、11月に『冬の戒律』、翌年6月に『鬼になるまで』を出す。

1972年 23歳
東京都立大学大学院人文科学研究所修士課程に入学。英文学専攻。1年上に加藤光也がいた。大学院時代は、英文学の勉強以上に、フィルムセンターや文芸坐に通い、古い日本映画を見た。見ていない作品をやっていれば、かならず足を運んだ。ロック・ミュージックにも熱中(とくにT・レックス!)。中村とうよう編集の「ミュージック・マガジン」を毎号読む。塾講師のアルバイトをやりながら、映画、本、音楽、酒、そして人とつきあうことにいくらでも費やせる「ありあまる時間」があった季節。

1973年 24歳
大学院2年目。千石英世に出会う。英米文学を日本文学への関心にかさねて読むこと。彼と一緒にそれをやった。篠田一士の、世界の文学を横断する「態度の大きさ」に接するのが楽しかった。金関寿夫のパウンドの授業、鈴木建三のジョイスの授業などからも一生残るものを受けとった。「ユリイカ」1月号に作品「拒否」。続いて、同誌に「未成年」と「最後の授業」も発表するが、依頼された吉岡実論を書けなかった。この躓きを予兆とするように修士論文も書けなくなって、留年をつづけることになる。7月、佐藤泰志に出会う。

1974年 25歳
ボブ・ディランが、そのアルバム『プラネット・ウェイヴズ』以来、大きな存在になる。

1975年 26歳
ヘンリー・ミラーとJ・M・G・ル・クレジオに熱中。佐藤泰志とよく会った。

1976年 27歳
修士課程修了。修士論文『ディラン・トマスの初期の詩』。4月から1年間、石油ショックの直後の「実社会」のきびしさを体験。どうやって食っていくか。いろいろと試してみたが、笑い話のタネとなるような失敗の連続。試験での勝負強さはあり、東京都の教員試験に受かった。ボブ・マーリーなどのレゲエ、ラモーンズ、セックス・ピストルズ、クラッシュなどのパンクロックをいつも聴いていた。

1977年 28歳
東京都立杉並高校の、英語の教諭となる。同僚に水島英己がいた。臨海学校の引率に行き、砂浜で彼と相撲をとって思い切り投げられ、親しくなる。音楽シーン、エルヴィス・コステロの登場に拍手。12月、イギリス、スペイン、フランスに行く。

1978年 29歳
8月、ニューヨークに。毎日ロックコンサートに行きながら、映画への情熱をよみがえらせた。秋の終わりごろから、ある映画の脚本を頼まれて書くが、完成できず、これで映画界との縁も切れたかと落ち込んだ。

1979年 30歳
岡山大学教養部に英語の講師として赴任。岡山市に住む。しばらく詩も映画も忘れていようと思ったが、加藤健次、秋山基夫、境節などの詩人たち、そして映画好きの人たちに次々に出会っていった。由木しげる主宰の詩誌「オーバー・フェンス」に書くようになる。岡山に慣れるにつれ、大学院時代のような生活に。

1980年 31歳
イェイツ、エリオット、オーデン、トマスを主な対象とするイギリス現代詩の研究以外に、完成できない小説を書きちらしていた。詩も書きつづけるが、もうひとつ乗っていない。

1981年 32歳
本腰を入れてオーデンの詩を読み、高橋伴明監督の作品を中心にピンク映画を見まくっているうちに、この夏、突然、詩がどんどん書けるようになった。

1982年 33歳
10月、小宮山恵子と結婚。結婚直前から4か月ほど、岡山市中心部に近い旭川べりに住み、川の詩を書くようになる。

1983年 34歳
7月、藤井寛との共訳『カリガリ博士の子供たち』(S・S・ブロウアー著、晶文社)。12月、詩集『最後の授業/カントリー・ライフ』(私家版)。

1984年 35歳
佐藤泰志と5年ぶりに再会。東京都立大学人文学部に転任。国分寺市に住む。夏ごろから心身ともに不調に陥る。最終的に大阪に通って、「気」の研究家井村宏次の治療・指導を受ける。関西文化にあこがれた。快方に向かったところで太極拳をはじめ、さらに野口整体にも出会い、体について西洋医学とは完全にちがった考え方に立つようになる。恢復期。佐藤泰志に影響され、夫婦で競馬に熱中する。

1985年 36歳
2月、妻と出場した全日本マカロニ協会の「あつあつカップル・ブランチコンテスト」で優勝。つくったのは、動物を使わない「大根とあげのスパゲティ」。ヴェジタリアン時代の思い出。夏、その副賞の旅行でイタリア、フランス、スペインに行く。妻とともにスペインに強く引きつけられる。11月、エッセイ「病気のこと」(「オーバー・フェンス」第9号)。これで病気に決着をつける。アメリカの映画批評家ポーリン・ケイルに熱中。福岡の中村信昭の出していた「鷽」に映画関係の原稿を書きはじめる。

1986年 37歳
3月、国立市に転居。近所に、新井豊美。織田作之助に熱中。夏、ユーレイル・パスを使って、オランダ、フランス、スペイン、イタリアをまわる旅をした。

1987年 38歳
岡山の加藤健次が「防虫ダンス」を創刊。ここから2年間、同誌に精力的に書く。荒川洋治と女性詩人たちの仕事が視野に入ってきた。6月、「鷽」第8号に「石井輝男・夜の魅惑と恐怖」を発表。10月、石井輝男インタビューを開始する。暮れから翌年の正月にかけて、スペインに行く。

1988年 39歳
「詩学」で1年間、詩誌月評を担当。10月、詩集『急にたどりついてしまう』(ミッドナイト・プレス)。

1989年 40歳
4月、篠田一士死去。人が亡くなってほんとうに悲しいと感じた最初の体験。その悲しみは、もっと自分を見ていてほしかったという利己主義的な感じ方につながることにも気づく。ここから、こたえる人の死がつづく。6月、雑誌「ジライヤ」を創刊。妻に編集・制作の実務を担当してもらい、年3回のペースで出していった。10月、詩集『結婚入門』(雀社)。雀社は、中村信昭の兄修治のおこした出版社。12月、菅谷規矩雄死去。

1990年 41歳
1月、菅谷規矩雄の通夜で、4月から同僚となる瀬尾育生と初めて会う。3月、ウェールズとスペインに行く。9月、カセット詩集『地下帝国の死刑室』(音楽吉田孝之、ジライヤ・タッチ)。同月、詩集『地上のぬくもり』(雀社)。10月、佐藤泰志が自殺する。11月、鈴木志郎康と初めて会う。妻との暮らしぶりを撮影したいと言われる。12月、「あんかるわ」、第84号で終刊となる。

1991年 42歳
5月、「ジライヤ」第6号。佐藤泰志追悼特集。鈴木志郎康の映画『戸内のコア』公開。9月、詩集『行儀のわるいミス・ブラウン』(雀社)。その打ち合わせのために福岡に行って中村兄弟に会い、下関で北川透に会う。12月、ピアニスト大川由美子との、詩とピアノのライヴ「スペインで、夢のかたすみで」。音楽、「イカ天」から登場したブランキー・ジェット・シティに興奮。

1992年 43歳
「現代詩手帖」で1年間、「詩書月評」。1月、石井輝男との共著『石井輝男映画魂』(ワイズ出版)。9月、翻訳『東京日記』(リチャード・ブローティガン著、思潮社)。10月、詩集『きみたちは美人だ』(ワイズ出版)。同月、大川由美子とのライヴ「スペインで、夢のかたすみで」第2回。「新潮」11月号に長篇詩「いま、この谷間に、ぼくは投げおとされた」。

1993年 44歳 
1月、大和屋竺死去。5月から1年間、「現代詩手帖」の「新人作品」の選者。ともに選者となった新井豊美との行き来、ひんぱんになる。9月、山﨑幹夫との共編著『大ヤクザ映画読本』(洋泉社)。10月、編著『オーデン詩集』(中桐雅夫訳、小沢書店)。同月、辻仁成との朗読会「ことばの決闘’93」。このあと、辻仁成との朗読会はかたちを変えて3回おこなった。チャールズ・ブコウスキーを読む。

1994年 45歳
1月、詩集『旧世界』(思潮社)。同月、荒井晴彦・竹内銃一郎と編集委員をつとめた大和屋竺評論集『悪魔に委ねよ』刊行(ワイズ出版)。7月、翻訳『ビリー・ザ・キッド全仕事』(マイケル・オンダーチェ著、国書刊行会)。瀬々敬久をはじめとするピンク映画の若い監督たちとよく会うようになる。

1995年 46歳
1月、「ジライヤ」別冊・大和屋竺特集号を出す。同月、立花信次名義で脚本を書いたサトウトシキ監督作品『悶絶本番 ぶちこむ!!』公開。3月から4月にかけて劇場映画の第一作『急にたどりついてしまう』を撮影。オウムの地下鉄サリン事件の日にクランクイン。11月、同作品公開。

1996年 47歳
2月、「ジライヤ」第20号で終刊。5月、評論・インタビュー集『ピンク・ヌーヴェルヴァーグ』(ワイズ出版)。10月、『急にたどりついてしまう』でヴァンクーヴァー国際映画祭に招かれ、ホン・サンスをはじめとする韓国の監督たちと親しくなる。

1997年 48歳
1月、井家上隆幸、安岡卓治と編集委員をつとめた佐藤重臣評論集『祭りよ甦れ!』刊行(ワイズ出版)。3月、論文「戦争への旅――1930年代後半のオーデン」(「都立大学人文学報」第283号)。9月、韓国に行く。

1998年 49歳
4月、教授に昇任。5月、雨矢ふみえ、新井豊美、大日方公男、神山睦美、倉田比羽子、瀬尾育生、添田馨、宗近真一郎、横木徳久、吉田文憲とともに「GENIUS」を創刊(このメンバーで、国立市で読書会をおこなっていた。ここから通称「ゲニウスの会」というものになる。この会は、このあと読書会もつづけ、同人に水島英己、高貝弘也、杉本真維子が加わり、「GENIUS」を第4号まで出したのち、世紀が変わってからは簡素な造りで「進行中」の原稿を発表する「GIP」を隔月刊で発行し、2004年まで活動をつづける)。8月、「詩の雑誌 midnight press」でエッセイ「詩は生きている」の連載を開始する(2002年冬号まで)。9月から翌年の8月までの1年間、ウェールズ大学客員研究員として、ウェールズのカーディフに滞在。研究課題「ディラン・トマスの詩とケルト文化の詩的伝統」。ジョン・フリーマン、ロイド・ロブスンなどの詩人と親しくなる。11月、アイルランドに行く。滞在中、「現代詩手帖」に1年間、「ウェールズ通信」を連載。

1999年 50歳
3月、詩集『福間健二詩集』(思潮社現代詩文庫)。5月、ドイツ、ギリシャ、スペインをまわる旅。7月、スコットランドに。9月、帰国。何度目かの、太宰治への熱中。

2000年 51歳
2月から1年間、「現代詩手帖」に「一篇の詩を読む」を連載。3月、来日したマイケル・オンダーチェに会い、彼の小説『ライオンの皮をまとって』を翻訳することを約束する。6月、詩集『秋の理由』(思潮社)。香港の作家金庸の武侠小説にこの年から熱中。金庸を読みながら、チャールズ・ディケンズとスティーヴン・キングの面白さも再確認。

2001年 52歳
1月、切通理作とおこなってきたポルノ映画論の総まとめ的対談「Viva! Erotica」をふくむ『Pink & Porno 銀幕のエロティシズム』が出る(ネコ・パブリッシング)。3月、井坂洋子と「詩の朗読とトークの夕べ」。ジム・トムプスンを読みつづける。

2002年 53歳
2月、小池昌代との「詩の朗読とトークの夕べ」。4月から国立市公民館で隔週2時間ずつの全6回の講座「詩のワークショップ」。ここから現在まで毎年おこなっている。5月から1年間、二度目の、「現代詩手帖」の「新人作品」の選者。9月、父清蔵死去。

2003年 54歳
1月から2月にかけて、来日したロイド・ロブスンとともに朗読とトークを連続的におこなう。このころからヒップホップをよく聴くようになる。年末から翌年にかけて、ポルトガルに行く。

2004年 55歳
前年12月に出た「現代詩手帖」1月号から長篇詩『侵入し、通過してゆく』を連載。3月、石井辰彦と「詩の朗読とトークの夕べ」。8月、ウェールズとポルトガルに行く。

2005年 56歳
新井豊美、水島英己と連詩と朗読のチーム「FARM」を結成。2月に最初の朗読会をおこなう。FARMの活動は、2008年8月までつづく。4月、勤めている都立大学が首都大学東京になって、表象文化論分野に所属する。瀬尾育生も一緒。二人で自主講座「詩を読む・詩を書く」を開く。6月、評論集『詩は生きている』(五柳書院)。7月、詩集『侵入し、通過してゆく』(思潮社)。8月、石井輝男死去。9月、ブルガリア、マケドニア、ギリシャをまわる旅。

2006年 57歳
3月、ポルトガルに。スペインにも入る。大学での授業、映画はゴダール、詩は鈴木志郎康を思考の中心においてやっていくようになる。12月、翻訳『ライオンの皮をまとって』(マイケル・オンダーチェ著、水声社)。同月、高貝弘也、杉本真維子と「COW」を創刊。三人とも丑年生まれ。

2007年 58歳
夏、映画『岡山の娘』を撮影する。年頭からその準備をはじめ、秋からそのポストプロダクション。悩みつづけた。10月、解説を書いた『佐藤泰志作品集』刊行(クレイン)。

2008年 59歳
2月、中村信昭死去。5月、『岡山の娘』を完成させ、岡山で先行上映。夏、マカオに行く。11月、『岡山の娘』一般公開。首都大学東京の表象文化論分野のなかに瀬尾育生と「現代詩センター」をつくる。その機関誌「詩論へ」に同人として北川透と藤井貞和を招く。

2009年 60歳
3月、「詩論へ」第1号。連載「詩について語る」の第1回を発表。8月、ピアニスト大川由美子とのライヴ「あらしの季節」。青春18切符で東北を一周する。映画のシナリオを3本書くが、製作にこぎつけられなかった。五味川純平を読みつづける。ジル・ドゥルーズ、ちゃんと読めている気がしないのにいつのまにか大きな存在になっていた。

2010年 61歳
1月、札幌と小樽に行き、小林多喜二との新たな出会いを果たす。2月、「詩論へ」第2号の発行に合わせて、首都大学東京でイベント「世界のいま、詩のいま」。2月から1年間、「キネマ旬報」で映画評を連載。8月、映画『わたしたちの夏』を撮影する。

2011年 62歳
1月、映画『あるいは佐々木ユキ』を撮影する。3月、地震の起こる2時間前に成田を発って、ポルトガルを旅行する。5月、ツイッターで作品を発表しはじめる。同月、編者・解説を担当した佐藤泰志初期作品集『もうひとつの朝』刊行。7月、詩集『青い家』(思潮社)。8月、映画『わたしたちの夏』公開。9月、『青い家』で萩原朔太郎賞と藤村記念歴程賞を受ける。この年、三つの長篇詩「トモハル」「彼女のストライキ」「ご飯はできていない」を「現代詩手帖」に発表。

2012年 63歳
1月、新井豊美の死にショックを受ける。3月、Naked Loftで、せきしろ、小原早織とのイベント「詩を楽しもう Poetry for You」。同月、ポルトガルを旅行する。7月半ばから約2か月間にわたって、前橋文学館にて、第19回萩原朔太郎賞受賞者展覧会「福間健二 青い家にたどりつくまで」が開催される。そのイベントとして7月、荒川洋治との対談「言葉と世界」。8月、鹿児島「吉次郎」にて朗読会。同月、スロヴェニアでの詩のフェスティヴァル「Days of Poetry and Wine」に招かれる。10月、クロコダイル朗読会に参加。同月、国立「NO TRUNKS」にて三角みづ紀、ピアノの石田幹雄と朗読ライヴ。同月、若松孝二の交通事故死にショックを受ける。


                              (敬称は略しました)


 











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