COMMENTS


冒頭、詩人の文月悠光が登場すると、福間監督映画の真打ち登場といった感じがする。映画は20歳の女性の「私と、私ではない私」という物語を紡ぎ出すが、それはむしろ外郭に過ぎず、「言葉×映像」の探求こそ本作の主題であることに気づかされる。 私たちがいかに言葉を獲得していくのかを、きわめて「映画的」に描写するクライマックス……深く頷かされました。前作、前々作で異物のように設えられた虚構性は影を潜め、福間映画のいちばん柔らかい部分や上澄みだけが抽出されたような言語×映像世界。鈴木一博さんの撮影がとても素晴らしかった。福間監督の映画はいつも刺激的だけど、今回は特に「言葉と映像」の関わりが非常に滑らかで、多くを考えさせられました。
港岳彦(脚本家)



研ぎ澄まされた言葉の連打に、思わず目を閉じてしまう。言葉が流れて行く。粗末な試写室の固いパイプ椅子に座っていても、心地よさにため息が出る。ありふれた光景が映像と音で語られたとき、全てがかけがえのないものに見えて来る。ボクがいちばん観たかった映画。『あるいは佐々木ユキ』。
小林政広(映画監督)



天使を捨てた男。妖精を捨てない女。産み落ちたキズを抱えて生きる若者よ。水溜りに濡れるのを恐れるな。流れ行くモノレールの夕景がキレイ。そして佐々木ユキ役の小原早織の目が忘れられない映画だった。
田中じゅうこう(映画監督)



『あるいは佐々木ユキ』、きれいな、冬のえいが、ことばほろほろ落ちてくる、降り積もって、ちらりと見ているこちらを。
なしの/nashino



午後、渋谷へ。福間健二監督の映画『あるいは佐々木ユキ A Fairy Tale』の試写会に行く。立川近辺の風景、地上から離れたモノレールの高さから見る多摩の夕焼けや街の風景、その奥行きの深さ、その色合いの優しさなどを強く感じる。ヒロイン佐々木ユキを深く包みこむ視点に注目した。
水島英己(詩人)
*水島さんの詳しい批評はこちら
 http://www.facebook.com/hidemi.mizushima?fref=ts



『あるいは佐々木ユキ』福間健二監督。すさまじかった! 何が襲ってきたのか分からない映画体験。むちゃくちゃこわくてドキドキしっぱなし、同時にずーっと楽しい異常な体験。ときどき猛烈に感動するんだけど、自分が何に感動しているのかさえ分からない。世界は早く福間健二監督に目を向けた方がいい。
前田弘二(映画監督)



詩人の福間健二さん監督の『あるいは佐々木ユキ』を拝見。ゴダール/トリュフォーのさらに先の領域で撮った、音と光による自在なエッセイになっています。三部作では一番好きかな。私もエキストラで出ました。
金子遊(映像作家・批評家)



佐々木ユキという女性がいることのドキュメントとしてみました。
物語としての架空の存在、ではなく実際にそこにいる一人の女性の言葉として聞いて、姿としてみて、彼女のまとった空気と彼女の周りの世界を受け取っていました。
断片的でとりとめも無くて、ただそうなのかとこちら側は観ているだけなのですが、その観ているという行為に芯が無いのです。観ているこちらの。同化してそこの空気、光に自分もなっているような錯覚を覚えました。

さらに自由でさらにへんになっていて、それが居心地がいい。不思議な体験でした。スクリーンで観たらまたきっともっと違う。言葉の力と言葉にない光や音の力と。震災直前のまちの姿、空気、光がおさまっている。タイムカプセルのようにしてそこにあること。でもずっと不穏な空気が充満している。

今生を終えるときの一瞬の夢のような断片。一人一人が実在するようでしないようででもしている感じ。ふわふわとした地に足の着いてない世界。あの世のような。でもそのふわふわ感がどうしようもなく自分が14年ほど暮らした東のまちの姿であり土地なんだよな、と懐かしく思い出しました。

見る人それぞれに違うように作用する幻覚剤のような。
魔法だなと思います。

歌を聴くように物語を読むように酔っぱらって千鳥足で歩くときのように少しずつずらされていく感覚。そしてまぎれもなく映画体験。
とても嬉しかったです。ずっと何度も観ていたいです。

最後にもう一人のユキと夜の町中で会って、ふっと笑うユキちゃんの顔が、表情に、やられました。
笑った顔が、とてもいいですよね。きゅ、と詰まってる。いろんな人の思いが。

見る人の数だけそれぞれの佐々木ユキがうまれるんだと思います。沢山うまれてほしいです。
佐々木ユキ主義、いいですよね。自分も主義を持ちたいと思いました。

なんというか、ずっと喋っていたくなったり黙って思っていたくなったり、ひとの感覚に作用しますね。わたしたちの夏の夏の湿度から、今度は冬の乾いた空気になっていて、あの時期の土地のことを時間をこうして記録してもらえたことはとてもよかったと思いました。
ありがとうございます。とお礼を言いたい気持ちです。

きっと酔っぱらいながらだらだらとあそこはああだった、こうだった、と話しながら、突然ユキの物真似を始めたり、自分もなってみたり、自分の主義を言い出してみたり、そうして反芻するのがきっととても面白いと思います。拡散している光のような映画でした。眩しくて目にいたいくらいです。そしてとてもやさしい。冬の匂いがするようでした。
中西佳代子(双葉企画室)



言葉としての映像か、映像としての言葉なのか……。そんな観客の取るに足らない思いは、文月悠光の「言葉の宴」によって始まり、鈴木一博の「映像の宴」によって覚醒される。まるで中原中也とヴィンセント・ムーンのコラボを観ているようだ。
東中野の小屋を出て、寒空の中、目の前を中央線が走り抜けて行った。
生き急ぐ俺って「あるいはさ、先行き」ではないかと。
杉村重郎(アニメプロダクション勤務)



本当におもしろかったです。
冬の光が本当に美しくて、ユキがさまよい歩くところ、朗読と出逢うところ、踊るところ、立川あたりの多摩っぽい冬の光が、僕には懐かしくもあり、きれいで、寂しくて楽しくて、人間が生きていること、木が生えていること、街があるということ、雑踏、落ち葉が散ってそこにあるということ……存在するということ自体に光が当たっていて、なんだか泣けてきました。「佐々木ユキ主義」を記して、「ごはんには味噌汁と明太子」と言って、ごはんをのりで巻いて明太子のっけてパクッと食べるところでは本当に涙が出ました。
室内でも光がすばらしく、だから夜のシーンは少し霞んで見えてしまいました。

「豚」というモチーフもいいですよね。「…軍艦」と言ったところは笑いました。 「〜の精」というのも詩的だけど、あの世界には日常的にあってもおかしくない言葉として存在していて、ただ日常を切り取っただけではああは表現できない、福間世界の強度も感じました。踊りやヒップホップのリズムが非常に身体的で、そこがさらに存在を照らす光の美しさを倍増していたのかなとも思います。

成人の日で終わる事も含めて、秋が深めいてだんだんクリスマスや年末が近づいている、正月が来る、というあの冬の感じが、実際の冬本番を前に観るとたまらなく愛おしかったです。
石川多摩川(映像作家)



昨日ポレポレ東中野で、福間健二監督作品「あるいは佐々木ユキ」を観てきました。
観ていてとても気持ちがよかったです。
大好きな、砂川七番の gallary septima がいくつかの素敵なシーンに出てきたり、いつもみなれているモノレールやモノレールからの景色が、凄い美しくて、立川駅や知っているいつもの場所が、全然違った風景に見えたりして、今私たちが生きて、生活している世界が、特別で、なにか不思議な手触りや質感をもってかんじられる気がしました。
特に、映像の力を強く感じます。これこそ映画という!
ある場所にある人がいるだけで、ある物があるだけで、それだけで圧倒的な存在感とそして意味までも、ヒトもモノも発し出すという不思議さ。ドキュメンタリーとフィクションのはざまで撮られた映画です。
何かものを作っている方、表現されている方は是非ご覧になってください。凄い勇気をもらえると思います。詩人でもある、福間健二さんが、映画の中で、詩や文や言葉をさまざまに引用し、使って、映像と融合させて、あるひとつの世界を創りあげていらっしゃいます。見て損はないです!
多摩にお住まいの方たちも是非に! 世界が違って見えるかもしれませんよ!
ハナ ジャスミン(空豆ファクトリー)