HERE ARE SELECTED WORDS OF KENJI FUKUMA


いい気持ちだけど、さびしいよ
青い闇なのに
だれも青いことに気づかない
「急にたどりついてしまう」1985


映画史は、どこまできたのか。21世紀に入り、ペドロ・コスタ、ジャ・ジャンクー、ワン・ビンなどが低予算の条件と小さなカメラで切り開いた映画の「いま」。ずばり、「物語や主題に従属しない」と「世界にものを言う」が、劇映画とドキュメンタリーの境界をとっぱらうように出会っている。このことよりも大事な新展開があったとは思えない。
「『何も変えてはならない』について」2010


「美しい夢」と区別がつかない
魂の仕事を遅らせるために
ためらいと挨拶に青い溶岩を感じとって
舌をよろこばせてしまうキス、久しぶりにした。
「よろこびの国」2011


監督たちは、大ヴェテランから若手まで、しばしば、なんでそんな企画を引き受けたのかというような仕事をやらされている。それが、相も変らぬ日本映画の現状である。石井輝男は、そういう仕事をしなかった。魂を売り渡さなかったのである。多くの監督たちがしがみつきたがる大義名分とも、空虚なヒューマニズムとも、体制への迎合とも、大筋のところ、無縁であった。
「石井輝男の最後の闘い」2010


オーイ
今日はいいことがあるぞ!
「水色の蛇の夢」1980


性的な幻想の迷路から現実へと、小さな秘密(昔、先生とエッチした)から大きな秘密(いま、世界はどうなっているのか)へと折り返している。女性への、あがないと讃美の歌がひびく。女性に見てもらいたい。
「『結び目』について」2010


体をぬらすときは
どんなふうにぬらすのがいいのか、それはまだわからないけれど
「生きている者」1993


洗練されていないアジアがあり、濃淡のちがう縁でつながる愚かさの対立と連帯があり、「個人的なものではない人生」があり、「神でも人間でもない形式」への夢があって、ひとつひとつの小さな局面に、今日の不安のすべてを引きよせている。
「『ヘヴンズ ストーリー』について」2010


この世界には
楽しいことがいっぱいあって
不意打ちの、美しい目から
秋がはじまる
「秋の理由」1997


最後に登場する女性のアップの長まわしにずっと息の音が聞こえている。撮影する者の息である。人を撮ることへの、怯えをふくんだ必死さ。娼婦たちの詩への、精いっぱいの返礼となる、言葉にならない詩である。
「『LINE』について」 2010


世界はいつからこうだったのだろう
それはなぜだろう
「未来」2004


最後は「ノーコメント」の字幕。何も言うことはない。そうであるからこその、表現。映画、ヨーロッパ、人生。私はワクワクした。1960年代後半からの迷路に、いくつもの停止点を一気に接続するような閃光が何度も走った。新たにはじまる夢と幻滅。まだやれるよ、と答えたい。
「『ゴダール・ソシアリズム』について」2010


墓場から転がってくる太陽の非難をあびながら
無数のおれが鎌を握る この熱い目ざめの
裂けた先端はだれにもさわらせない!             
「拒否」1972


田中裕子も淡島千景もどうしてこんなにいいのか。とくに後者は奇跡的と言いたくなるオーラを放つ。
「『春との旅』について」2010


「人に嘘をついても
自分を欺しちゃいけないよ」
「なっちゃんの町」1990


みんなに同じようにやさしくしなくてもいい。そのかわり、この人はと思ったらその人の世話は徹底的にやる。若いスタッフにいつも言っていることだとして、ある施設の代表がこういう意味のことを言う。これはすごくいいと思った。
「『ただいま  それぞれの居場所』について」 2010


ぼくは来た
ぼくは行ってしまう
ぼくはまだ黒い芯を昂らせている
「ぼくはまだ黒い芯を昂らせている」1993


夢を裏切りつづけた20世紀の、そしてそれを描いてきた映画史の、いちばん切実な痛点。地平の広がりのなかにそれを確かめながら、その上に永遠を感じさせる大きな空をおく。うれしかった。何よりも、こういう美しさを忘れない表現ジャンルとして、映画は存在するのだ。
「『ジャライノール』について」 2011


まちがっている
でも、ものすごくまちがっているわけじゃないだろう
「むこうみず」1983




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